V

 

●ブログの引用は読んでくれなくて大丈夫です

 

2016年《華やか過ぎる舞台の上 華やかじゃない位置についた》と自分のことを歌う戸塚さんのことを好きになった。

整いすぎているお顔と優しすぎる言動、クレバーな発言の数々。それらを持ち合わせながらも自己肯定感の低すぎる文章や歌詞を書く人。

「この人の自己肯定感を少しでも上げたい」「自分の立つ位置を"華やかな場所"だと思ってほしい」オタクの身勝手すぎる感情で、ここまで戸塚さんのことを応援してきた。

 

昨年、舞台『Defiled』で戸塚担として自担の主演外部舞台を初経験した。

戸塚さんは自尊心が低い、それはほんとに低いのかもしれないしいつまでも低いように見せてるだけなのかもしれない、いちファンである私には知る由もない。

私は好きになってすぐに発売されたA.B.C-Zの3rdアルバムSTAR LINEに収録された戸塚さんのソロ曲Vを聴いて堪らなくしんどくなった。それは戸塚さんが自分の立つステージを華やかじゃない位置と表現したから。前に書いたブログではそれは今のことか昔のことか分からないけどと書いたがそれは今尚戸塚さんが葛藤して、思ってることなんじゃないかなとDefiledを観劇した後の私は思う。

戸塚さんがこのDefiledをやるにあたってJMovieMagazineでこんなことを言っていた。 “自分も愛してあげなくちゃいけないとは思っていますが、嫌いだし、でも好きだし。自分のことを信じているけど、疑ってもいる。常に矛盾(笑)だから人の意見を尊重したいしそのバランスとして、僕には芝居がある。好きな芝居を思いっきりやれることで、僕は満足できるんです。”

私も自尊心の低い人間だから自分を嫌いな気持ちと同時に自分を愛してやらなきゃという気持ちがある。それは周りが自分を認めてくれないなら自分くらい自分を認めてあげなきゃ私自身が可哀想だと感じるから。

戸塚さんのこの自分のことを嫌いだけど好き、という発言が同じことだとは思わないが同じような要素はあるのではないかと思う。そして、戸塚さんはその気持ちのバランスを取るために演技をすると言う。戸塚さんのお芝居が戸塚さん自身の中で大きな存在なことは理解していたがそう言うことだったのか、と感じた。

ドラマ - Come On A Show

「芝居を頑張りたい」そう言う戸塚さんのことを1年近く応援していたけど、この舞台を観て"そういうことか"とやっと腑に落ちたような気がした。

 

初見の日のDDDからの帰り道、ウォークマンをシャッフルで聴いていたら戸塚さんのソロ曲『ドラマ』が選曲された。

《「どうせ僕 なんてまぁ」》

今までも何度となく聴いていた歌い出しだったのに、戸塚さんのお芝居と自己肯定感のことを考えて歩いていたら、急にこの歌詞が"戸塚さん自身"を歌ってるんではないかと実感してしまった。担降りしたばかりの拙い知識で書いたブログだったけど、私はこの『ドラマ』を戸塚さんがお芝居の道に一歩、もう一歩新たに踏み出そうとするそんな決意の曲だと受け取った。

 

そして『ドラマ』を歌い、舞台や映画ライブをこなしたその年、戸塚さんは自分の手にあった"書く"という仕事を置いた。

このドラマを歌った年の年明けに戸塚さんは雑誌ダヴィンチでの連載を閉じ、歌に踊りにお芝居に浸かると宣言した。とりわけお芝居にはのめり込み舞台にも映画にも挑戦したいと言い切っている。 正にこのドラマを描き、歌った頃戸塚さんは書くことと歌い踊りお芝居することの中でもがいていたわけである。しかし、"沈む日か 昇る日か 目にしたら 分かるから"というフレーズからも取れるように戸塚さんはこれを書いた時点でお芝居を何よりの優先順位のものにしてるようだし、それを選択することが間違っていないということも自覚出来ていたのではないかと思える。また、"さよならは 言わないで 待っていて"それは書くことを一度置くことに決めた戸塚さんなりの言葉だったのではないかとも取れる。 そして、"だからこそ 燃やしてく 燃やしてく それしかないからさ もがいてく もがいてく 転んで立ち上がれ 消えていく星の 流線を君も 見ていたら 見ていたら"であるが、書くことを置くことに決めたからには歌や踊り、とりわけお芝居に対する熱をさらに燃やさなければならない。置くことに決めきれているかわからない当時の状況では、それでももがいて転んでも立ち上がってお芝居にすがりつくしかない、そんな風に思っていたのではないかとしがないファン目線からそう思った。そしてお芝居を選んだことでチャンスや希望という'流れ星'は目の前を流れて消えていく。しかし、それを見逃すことが今の自分には必要であって、それをファンのみんなも見ているよね?と同じ目線で闘ってくれるからこその歌詞だったのではないのかなと思った

ドラマ - Come On A Show

入所したての戸塚さんのお芝居に、「YOUイイね!」と声をかけたのは紛れもなくジャニーさんだった。自分が1番最初に認めてもらった才能である"芝居"、戸塚さんは何よりそれを頑張ろうとした。

 

アイドルをしながら"書く"ことを仕事にするのは、グループとして与えられた仕事の外、プライベートの時間を自分で管理して使うことだった。戸塚さんは『ジョーダンバットが鳴っている』の連載中、不器用ながら必死に書いていたんだと思う。

"芝居"をはじめとしたアイドルとしてのエンターテイメントに力を注ごうとした戸塚さんは、"書く"ことを続けるのを無理だと自ら判断した。期待されている仕事を自分の意思で断つというのは、相当の決意だと感じる。かねてより"書く"ことを希望してたのならなおさら。だけど戸塚さんは"書く"ことを置き『ジョーダンバットか鳴っている』を閉じた。

 

私がA.B.C-Zに興味を持ったのはちょうど戸塚さんの卒業記念で、ダヴィンチの表紙を5人で飾っている頃だった。担降りを決めた時にはもちろん、大々的に戸塚さんの"書く"仕事は用意されてなかった。

 

そんな中で戸塚さんに残された書く仕事、それは戸塚さん本人のソロ曲の作詞だった。『ドラマ』『V』『Dolphin』は三部作になっている、戸塚さんはそんなことを言った。私が担降りを決めた『V』、戸塚さんが芝居で戦うと決めた『ドラマ』、そして三部作の締めである『Dolphin』である。戸塚担として大切でないわけなかった。というか"書く"仕事を置いた戸塚さんの担当として、ソロ曲の下書きのようなブログはあるにしても、その集大成であるソロ曲は戸塚さんの生きている熱そのものだった。

熱狂的な戸塚担が多いように、ジャニーズの中でも戸塚さんに熱狂的な後輩は多い。私に目をつけられてるSZの赤担当もその1人だった。戸塚さんに傾倒してるなら傾倒してるだけ、戸塚さんの人間臭くて不器用で作ってきたそのものが本人のカケラになってるのは目に見えているはずである。戸塚担の私が大事だと思ってるなら周りの戸塚担も同じようにそれぞれ大事にしてるし、張本人の戸塚さんはもっと大事にしているはずである。戸塚さんのソロ曲はほんとに、そんな宝物のようなどうしようもなく大事な存在だ。

大事な存在なのだ、戸塚さん本人以外には誰にも手垢をつけられたくないくらい。それなのに戸塚さんは何も考えずに(考えた上での行動かもしれないけど)ショオリにソロ曲を歌うことを許した。ある意味裏切られた気すらした。

私はショオリとはタメで、だからこそバチボコ発言が過激になってしまうこともある。同い年として、同じ戸塚さんを愛する者として、なんで自分本位のマウンティングしか出来ないのかほんとに不思議だから。周りを見渡せばソロ曲のデモを送られてる後輩なんてたくさんいるし、戸塚さんの自宅にお呼ばれされてる後輩もたくさんいる。それなのに何故か自分しか見えていなくて、自分だけ特別だと思い込んで、そんな大事なソロ曲を戸塚さんが現場で歌い切る前に"自分のもの"として歌ってしまうのだ。

一昨年のソロ曲は『V』だった。「5人の5周年に向けてのV。そこにはVictoryって意味も含まれるかもね」戸塚さんはそういう言い方をした。戸塚さんは別にショオリに宛てた曲とか、ショオリの名前にちなんでVictoryの意味をとか言っていない。それなのにショオリは後者だけを踏襲して我が物顔で《V=Victory=オレ》にした。尊敬を向けてるはずな戸塚さんのカケラなのに。戸塚さんの作品を戸塚さんのものとして大事にしてくれないショオリにも、戸塚さんの作品を戸塚さんのものとして守り抜いてくれない戸塚さんにも腹が立った。大事な大事なカケラなのに、そんなに簡単に使って消費しないで欲しかった。

 

戸塚さんが歌った『V』については以下のようなブログを書いた。

自担になられた戸塚さんのソロ曲"V"です。曲がただただ真っ直ぐで戸塚さんのことを知り始めたばっかりなのに、メンバーを大切に思っていることやまだまだ前進する意志があることが感じられる曲で、戸塚さんらしくて最高だなと思いました。特に「華やかなステージの上華やかじゃない位置についた」という歌詞に考えさせられました。戸塚さんはルックスもスキルもメンバーや事務所の他のタレントに劣りません。それがなかなかデビューに結びつかなかったものだったとしても他者より秀でてるとさえ思います。どんなにJr.歴が長くてもデビュー出来た時点で勝ち組とさえ思い得ます。この歌詞がデビューしたばかりの頃を指しているのか、今現在の状況を指しているのかは当人しか知る由もありません。しかしどちらにしたってステージに立ち続けてくれている自担の、その立ち位置を自担は"華やかじゃない位置"だと思っている、その事実は担降りしたばかりの私でさえ苦しいことでした。

36歳、改めて - Come On A Show

私は自担が頑張っている姿やそこから得たスキルを驕らず自分の思うように生きる姿に、応援したいなという気持ちを抱きがちです。謙虚なのは良いことです、そこからもっと自分の腕を磨こうと思ってもらえるなら。けれど"華やかじゃない位置"という謙虚さは戸塚さんの今までしてきた頑張りさえも否定するような悲しい謙虚さだと思うのです。謙虚なのは良いことだけれど、自担が自担自身のことを下げて言うのは悲しい、自担に自担自身のことを認めてもらいたい。それには自担が自信を持てるような、"華やかな位置"だと思える位置に連れて行ってあげたい、オタク本位だけれどそう強く思いました。今年のABC座でも感じましたが人が人を応援する力は大きい、戸塚さんの書いた1フレーズで私は応援したいという強力なエネルギーを得ることとなりました。

36歳、改めて - Come On A Show

戸塚さんの優しすぎる優しさは自己肯定感の低さから来ているのかもしれないし、それは私の勘違いなのかもしれない。だけどそんな自分のカケラをも蔑ろにするような、戸塚さんを簡単に踏みつけるような優しさなら、私は戸塚さんにそんな優しさ持って欲しくない。戸塚さんの"書く"ことに関する遺された輝きを、他人に安売りしないで欲しいと強く思う。

 

"書く"ことを置いた戸塚さんだけど、書けることはずっと力だと信じてた。真っ直ぐすぎる現場前後のブログも、装飾を施しすぎる伝打伝助も、夢のように輝く歌詞の数々も、全部全部戸塚さんが今まで積み上げてきたものの証だから。

だから『ジョーダンバットか鳴っている』の発売も、それに付随する連載の再開も喜んだ。ブログやドル誌の連載を読んでいる限り、まだまだ戸塚さんには"書く"ことの余白があるように見えたいたから。

でもオタクに向けて自分の思いのまま書く文章と、一般読者に向けて自分を整えて提供する文章とはわけが違ったらしい。連載再開の際に再開を渋ったことを本人は明かしたけど、前回の連載が書籍化して1ヶ月、戸塚さんの危惧はその通りの現実になってしまった。

 

今回戸塚さんは連載を落としてしまったことを、何より先にブログを通してオタクに謝った。「俺はなんにも気にしてないよ、とにかくみんなごめんね!」と言わんばかりの気丈さで。数か月前に声帯結束を報告した時もそんな調子だった。「大丈夫、大丈夫、おれのズボラさみんな知ってるでしょ!」って。

確かに戸塚さんがそういうケアに疎いことを知っている、身の回りのことが杜撰なことも知っている。だけど私たちは戸塚さんがそうやって気丈に振る舞うことで、自分の中身を全部ポジティブに包み込んで隠そうとしてしまうことも知っているのだ。

戸塚担として、毎月の連載は戸塚さんの声を聞く場、作品を受け取る場として楽しみにしていた。だけど今回戸塚さんが連載をひと月落としてしまったことで、私たちは戸塚さんの"書く"ことに対して求めすぎた、というか希望を押し付けすぎていたのかな、と気づかされた。

私たちが一方的に押しつける希望や好意に応えようとして、痛いくらいの姿を見せる戸塚さんに、なんかもういっぱいいっぱいだった。

 

戸塚さんに自己肯定感を上げてもらいたかった。戸塚さんに"書く"ことの才能があると思って、それでたくさんお仕事が貰えると良いなと思ってた。だけどそれは全部オタクのエゴだったのかな、と思う。

戸塚さんが"書く"ことを自分の意志で置くと決めざるを得ないほど苦戦していたの知ってたのに。戸塚さんが連載再開を渋っていたの知ってたのに。そういう'できない姿'に目を背けて、'できるように見せてる姿'を必死に押し上げてしまっていた。

なんて戸塚さんはお芝居が上手なんだろうなぁ、すっかり本質を忘れて見せかけの姿にだまされてしまっていたよ。

 

戸塚さんが連載再開を渋っていたのを知った時すごく責任を感じた。今回戸塚さんが休載せざるを得ない状況になった今、その時以上に責任を感じている。

今回原稿を1回ぶん落としたこと、読者である私たちは次回以降が更新されたらきっと忘れてしまう。だけどとうの戸塚さんは一生絶対忘れられない、苦い苦い記憶になってしまっただろうな。

『戸塚さんの自己肯定感をあげたい』と思ったのに、結果的にそれは戸塚さんに「書けない」「できない」を再生産させてしまった。

 

この休載について手厳しい意見を持ってるファンもいるようだ。(見てないけど)

だけど私は一概に戸塚さんだけを責めることはできない。だって戸塚さんは自分の「書けない」「できない」を最初の連載の時点で知ってたから。知ってたのに無理やりこじ開けて再開させたのは、他の誰でもない戸塚さんを応援してるはずな私たちだ。こんな本末転倒なことあって良いんだろうか。

 

戸塚さんは私の目標であり神様だから無理せず楽しく生きて欲しい、それが私の今の願いだ。

アルバムの発売もライブツアーのスタートも、主演ドラマも楽しみだし嬉しい。だけどその上に連載を載せて、無理矢理全部のことをうまくできるように見せてくれなくて良い。戸塚さんがどうしようもなく不器用な人間なこと、応援してる人たちみんな知ってるんだから。もっと柔らかくリラックスして生きて欲しい。

 

ブログがあがった時のなんとも言えない感情はだんだん鎮まってきている。だけど戸塚さんの本質を思い出した今、これを書き上げないことには担当としてどうしようもないことだな〜と思うから、無理くり言葉を繋げて終わりを目指す。

 

戸塚さんに自己肯定感を上げてもらいたいと思ってるのは変わらない。戸塚さんを上に押し上げたい気持ちも変わらない。だけど今までよりもう少し、柔らかく落ち着いて応援しても良いのかなと思った。

とりあえず今日はこのブログの終わりを書いて、角川さんに戸塚さんをよろしくのお葉書を書く。戸塚さんは神様だし、無理して辛い姿を見たくはない。どうかどうか辛辣な意見ばっかり聞いて、これ以上休載に責任を感じて苦しみませんように。

戸塚さんが"書く"ことに関して、マイナスのイメージを持ち続けませんように。

そして何より、ジョーダンバットが戸塚さんの素敵な居場所で変わりがありませんように。

いつでも 今でも それが僕らの軌道