ドラマ

 

 

 

2017年4月15日、

戸塚担になってちょうど9か月目の日、戸塚祥太主演舞台『Defiled』をDDD青山クロスシアターに観劇しに行った。

 

 

去年寝取られをやって居る最後の数日くらいに戸塚さんへの興味が傾いた。今舞台やってるんだ!見に行きたいなと思ったけど予定もあったし見に行くことはできなかった。だからABC座とジャニーズオールスターズアイランドはあったものの戸塚さんの1人で挑むお芝居、舞台というものに向き合うのはこの日が初めてだった。

 

観に行った人たちがしんどいという感想をめちゃくちゃ抱いて居るのは知っていた。だけどネタバレを見るのは怖いし、自分が戸塚さんのお芝居を観て何らかを感じることへのバイアスがかかってしまうのではないかと思って感想ブログなどは読まなかった。その日から今日に至るまで私もしんどいけどこのしんどいが周りの皆んなが抱いて居るものと同じなのかは分からない。このブログを書き終えて自分の中で整理がついたら答え合わせをすると思う。

 

 

戸塚さんは自尊心が低い、それはほんとに低いのかもしれないしいつまでも低いように見せてるだけなのかもしれない、いちファンである私には知る由もない。

 

私は好きになってすぐに発売されたA.B.C-Zの3rdアルバムSTAR LINEに収録された戸塚さんのソロ曲Vを聴いて堪らなくしんどくなった。それは戸塚さんが自分の立つステージを華やかじゃない位置と表現したから。前に書いたブログではそれは今のことか昔のことか分からないけどと書いたがそれは今尚戸塚さんが葛藤して、思ってることなんじゃないかなとDefiledを観劇した後の私は思う。

 

 

戸塚さんがこのDefiledをやるにあたってJMovieMagazineでこんなことを言っていた。

 

“自分も愛してあげなくちゃいけないとは思っていますが、嫌いだし、でも好きだし。自分のことを信じているけど、疑ってもいる。常に矛盾(笑)だから人の意見を尊重したいしそのバランスとして、僕には芝居がある。好きな芝居を思いっきりやれることで、僕は満足できるんです。”

 

私も自尊心の低い人間だから自分を嫌いな気持ちと同時に自分を愛してやらなきゃという気持ちがある。それは周りが自分を認めてくれないなら自分くらい自分を認めてあげなきゃ私自身が可哀想だと感じるから。

 

戸塚さんのこの自分のことを嫌いだけど好き、という発言が同じことだとは思わないが同じような要素はあるのではないかと思う。そして、戸塚さんはその気持ちのバランスを取るために演技をすると言う。戸塚さんのお芝居が戸塚さん自身の中で大きな存在なことは理解していたがそう言うことだったのか、と感じた。

 

観劇後帰りの電車で2ndアルバム、A.BSea Market内の戸塚さんのソロ曲ドラマを何とは無しに聴いた。

 

"「どうせ僕 なんてまぁ」ハート凍っていて  眼差しは鈍ってる ウソのような今日 みっともないスピードで ただ漂っているよ"

 

あ、これ戸塚さん本人のことだ、。と歌い出しを聴いて思った。

 

ドラマは戸塚さんが描いて歌ったソロ曲であるから当然今まで聴き込んではいた。しかし、いかんせんこのアルバムは私が好きになる前に発売されたものだったから担当のソロ曲といえど深く考えたことはなかった。だけど改めて聴き込めば聴き込むほどこれは戸塚さんのことだと思わされる。だから自分の気持ちを整理するのも兼ねてこのソロ曲"ドラマ"について考えたい。

 

 

まず、歌い出しだが、「どうせ僕 なんてまぁ」と戸塚さんは自分自身に対して少なからず思っているように見える。これを断言出来るのは他人を受け入れることを重視して、自分を押し付けることをしない戸塚さんを知っているから。

 

ハートが凍っていて、眼差しが鈍っているのも自分に自信がない戸塚さんの姿なんだと感じる。他のメンバーはデビュー出来ると信じ続けていた戸塚さんはその中にいる自分をみっともないスピードで漂ってる、と思っていたかもしれない。最初のフレーズの各々は戸塚さんの過去から現状を具現化した言葉だと思った。

 

また次に来る、

"それでもさ 握ってる 紙切れだけを 記された 熱を見て 思い出せるかい めいっぱい 膨らませ 夢希望 憧れを 幾重にも 詰め込んだ 風船を"

 

ここで握ってるいる紙切れは戸塚さんが主演を務める舞台の台本だと思った。発売直後にこの'紙切れ'について本人はみんながそれぞれ持ってる夢が記されたもの、と言っていたようだけれど戸塚さんにとっては自分を肯定するためのお芝居に、なくてはならない台本だと私は理解した。

 

特に昨年まで戸塚さんが錦織さんとタッグを組んで行なっていたつか作品では台本が千秋楽まで紙で渡され更新・更新されていき、最後に本の形となった台本が渡されていたという話を聞いた。そしてその再度の更新には尊敬する先輩である錦織さんの熱が込められていただろうし、それを見たお芝居で闘いたいと思っている戸塚さんは自分を浮上させなければともがく気持ちが生まれていたのではないかと思う。

 

深読みすれば何か意味があるのかもしれないが"めいっぱい膨らませ 夢希望 憧れを 幾重にも 詰め込んだ 風船を"はここでは単純に戸塚さんで言うお芝居の仕事やA.B.C-Zとして売れること、という夢や希望・憧れを'風船'に例え膨らませて膨らませて思いを大きくするということで、サビにつながるフレーズになっていると見る。

 


"空に向け 放してく 放してく集めた瞬きを 散らしてく 散らしてく知ってた 方角へ 純粋なブルーが まっすぐに君へ 届いたら 届いたら" である。

 

先ほど膨らませた'風船'と例えられた夢や希望・憧れをここでは広い空へと放ち、またファン(応援してくれる人?)からの夢や希望・憧れという名の瞬きを散らしている、というふうに綺麗事だが思い込める。サビに関してはより一般化したことを言う必要から抽象的な言葉遣いがなされたのかなと感じたが、この小説のような言葉回しも戸塚さんらしいなと改めて口角が上がる。

 

 

2番の頭からは再び具体的な内容が歌詞になっている。1番の歌い出しに次いで私がこのドラマを戸塚さんのことだと感じたのが以下のフレーズである。


"作り物 事実無根 知ったことか 受け取ったバトン一つ 握りしめただけ 沈む陽か 昇る陽か 目にしたら 分かるから さよならは 言わないで 待っていて"

 

この"作り物事実無根知ったことか"と言うのは戸塚さんのお芝居に対する周りからの評価について本人が強く出た・闘ったものに私は見えた。また1番で'それでも握っていた紙切れ'同様、ここで受け取った'バトン'も錦織さんから(又はジャニーさんから?)託された台本なのではないかと思った。

 

このドラマを歌った年の年明けに戸塚さんは雑誌ダヴィンチでの連載を閉じ、歌に踊りにお芝居に浸かると宣言した。とりわけお芝居にはのめり込み舞台にも映画にも挑戦したいと言い切っている。

 

正にこのドラマを描き、歌った頃戸塚さんは書くことと歌い踊りお芝居することの中でもがいていたわけである。しかし、"沈む日か 昇る日か 目にしたら 分かるから"というフレーズからも取れるように戸塚さんはこれを書いた時点でお芝居を何よりの優先順位のものにしてるようだし、それを選択することが間違っていないということも自覚出来ていたのではないかと思える。また、"さよならは 言わないで 待っていて"それは書くことを一度置くことに決めた戸塚さんなりの言葉だったのではないかとも取れる。

 

そして、"だからこそ 燃やしてく 燃やしてく それしかないからさ もがいてく もがいてく 転んで立ち上がれ 消えていく星の 流線を君も 見ていたら 見ていたら"であるが、書くことを置くことに決めたからには歌や踊り、とりわけお芝居に対する熱をさらに燃やさなければならない。置くことに決めきれているかわからない当時の状況では、それでももがいて転んでも立ち上がってお芝居にすがりつくしかない、そんな風に思っていたのではないかとしがないファン目線からそう思った。そしてお芝居を選んだことでチャンスや希望という'流れ星'は目の前を流れて消えていく。しかし、それを見逃すことが今の自分には必要であって、それをファンのみんなも見ているよね?と同じ目線で闘ってくれるからこその歌詞だったのではないのかなと思った。

 

"恥ずかしいほどに助走をとったら もう今が さあ今が来ている 磔にしてた 好きの炎 身にまとい 戦うよ"ここでは長すぎたJr.時代という助走、その中でデビューしお芝居と闘える準備が出来た自分に気がつけているから、本を読み映画を見準備して来たこれまでを背負い闘うと宣言しているように見えた。

 

"「どうせ僕なんてまあ」もう言えない 星の 眩さが照らすから"

 

たくさんの輝ける選択肢の中から取捨選択をしお芝居を選んだ戸塚さん。それは「どうせ僕なんてまあ」と謙遜し後ずさることが出来ない状況に戸塚さんの身を置いた。何故なら戸塚さんはお芝居という星に照らされているから。そしてその光に照らされていることで戸塚さんは自尊心を維持しているから。

 

 

戸塚さんは闘っている。もがいている。特にこのドラマに関して私がそう感じているのはアリサマコンのDVDに収録されたドラマで戸塚さんが吠えていたから。このブログについて考えるまでは奇行と呼ばれるとこもあるのが戸塚さんだからね、と特に考えていなかった。だけどこれについて考えてからは戸塚さんの生きてる証だなと感じてしまってあの吠えがないドラマは物足りない。

 

戸塚さんのきれいな姿だけが見たい人にしたら吠えないできれいに歌い上げる映像が残った方が良かったのかもしれない。だけど後からファンになった身としてはあれが、当時今をもがいて生きていた戸塚さんの姿が映像に残って本当に良かった。

 

お芝居は、戸塚さんの生き方。それを戸塚さんが選んだ瞬間をリアルタイムに見ることは出来なかったけれどその過程を残してくれて一緒に今を未来を考えられるのは最高だ。

 

 

 

 

下書きを書き終えぬままDefiled千穐楽を迎えてしまった。戸塚さん勝村さんほんとうにお疲れ様でした。

 

 

福岡公演前日、戸塚さんは伝打伝助を介してひとつのお芝居に区切りをつける寂しさや心細さを語った。そして、演劇ってなんだろう・演劇を続けようと自問自答をしていた。

 

福岡初日、戸塚さんは目に涙を浮かべ汗をだらだらと流しハリー・メンデルソンを演じた。ハリーと離れることに心細さを感じている戸塚さんと、戸塚さんの中から今か今かと解放の瞬間を待っているハリー・メンデルソンが闘っていた。

 

千穐楽、戸塚さんは前日のような大量の汗も明らかに泣いたことがわかるような赤い目涙目もしていなかった。舞台終盤、勝村さん演じるブライアンの家のガレージにカード目録を置いておけば大丈夫だからと説得されるハリー。納得し握手・抱擁を交わすハリーとブライアン。私が見た限りその抱擁のタイミングでその日戸塚さんでありハリーは初めて涙を流した。

 

ハリーが何故こんなに強くカード目録に執着するのか分からなかった戸塚さん。ハリーの気持ちを理解するためにジャニウェブの更新も外食も遠ざけた戸塚さん。ハリーのことを考えて考えて考えた戸塚さん。数か月の戸塚さんとハリーの生活であり闘いが終わった。

 

 

カーテンコールで登場した戸塚さんは晴れやかな顔でいつも私たちに見せてくれる可愛い猫髭スマイルで微笑んでいた。

 

3度目のカーテンコールで勝村さんに促され挨拶をした。「どんな形になるかわかりませんが、またどこかでお会いしましょう」私たちがまたどこかで会うことになるのはハリーなのか戸塚さんなのか。にこにこと笑う戸塚さんがそう言うのだからハリーと戸塚さんは和解できたのであろうか。  

 

5回目のカーテンコール、Tシャツの血糊を指差して「明太子です!」と笑う戸塚さんを見て、何にしても戸塚さんが、戸塚祥太さんが私たちの元に戻ってきてくれて良かったと心が解けた。ハリーであった瞬間もどこかに行ってしまっていたわけではなかったけれど、'戸塚さんでありハリー'であった状況だった気がしていた。戸塚さんはハリーがいなくなってしまって寂しいかな。ハリーは私たちの心の図書館でいつまでも生き続けるから大丈夫、きっと。

 

 

 "空に向け 放してく 放してく 集めた瞬きを 散らしてく 散らしてく知ってた 方角へ 純粋なブルーが まっすぐに君へ 届いたら 届いたら"

 

 

 

 

結局私は初めて目の当たりにする戸塚さんの闘う姿に充てられてDifiledという作品についてまで考えが及ばなかった。戸塚さんがもがいてもがいたお芝居について考えてしまったらそれまでだった。福岡から東京に帰って来るまでの間に皆んながしんどいと感じた理由についても考えたからそれはまたない語彙力を振るって記事にするかな…。

 

 

私は飄々としていてお馬鹿で可愛い自担が好きだ。それなのに今回のDifiledでは自担である戸塚さんが努力?して闘ってという姿をありありと感じてしんどくなってしまった。これが自担の生き方なのか。好きになって約1年、やっと戸塚さんと向き合えた気がする。Vを聴いて戸塚さんの立つステージを'華やかな位置'にしたいと思った私はもちろん今後もその場所を支えられるように応援していきたいなと思う。

 

Difiledを観られて、戸塚さんのことを考えられて幸せだな。歌に踊りにお芝居に、戸塚さんの未来が、膨らませた'風船'が遠く遠くへ飛んでいけますように。